道具・発明の歴史

【道具・発明の歴史 #28】からくり人形から自動織機へ——豊田佐吉と「日本のものづくり」の原点

クイズをひとつ。茶運び人形が座敷でお茶を運んでいた江戸時代と、糸が一本切れただけで自動的に止まる織機が工場でうなっていた昭和初期。この二つのあいだに、直接つながる技術の系譜があると言ったら信じられるだろうか。実はある。からくりから自動織機、そして自動車へ——日本のものづくりの原点をたどる回である。今回は番外編「日本の道具スペシャル」の一編として、海外の発明史からいったん離れ、日本国内で連鎖してきた技術の系譜を追う。

江戸のロボット、茶運び人形の中身——動力・調速・プログラムの三点セット

茶運び人形は、客の前に茶碗を置くと自動で止まり、茶碗を取り上げるとまた歩き出す。単純に見えるこの動きは、実は三つの部品がそれぞれ役割を分担することで成り立っている。

まず動力源。ゼンマイは、クジラのひげ(骨ではなく上あごに生えた角質の板)を薄く削って作られていた。弾力があって折れにくく、金属バネがまだ量産できなかった時代に、巻いた力をじわじわ解放する「電池」代わりを務めた。

次に調速機構。ゼンマイの力は巻きはじめが強く、解けるにつれて弱くなる。放っておけば人形は最初に速く走り出し、あとから息切れするように遅くなってしまう。そこで使われたのがガンギ車(歯を斜めに切った歯車で、爪に一枚ずつ引っかかりながら回転を細かく刻み止める部品)と天符(左右に振れることで一定のリズムを刻む、時計のテンプにあたる部品)の組み合わせだ。この二つが噛み合うことで、ゼンマイのばらつく力が「コツ、コツ、コツ」という規則正しい動きに変換される。これはそのまま、当時の機械式時計や和時計の心臓部と同じ機構である。時計の技術者がからくり作りに関わっていたからこそ、娯楽の道具に精密な調速機構を持ち込めたのだ。

最後にカム。カムとは、軸につけた変形した円盤のことで、回転すると縁の形なりにレバーやアームを押し引きする部品である。歯車の歯数を変えれば動作の順序が変わり、カムの形を変えれば止まる位置や腕の振り方が変わる。今日で言う「動作のプログラム」に近いことが、木と金属の部品の組み合わせだけで実現されていたわけだ。

驚くべきは、この設計図が秘伝として隠されなかったことだ。細川半蔵の『機巧図彙』(1796年)には、からくり人形の構造が図入りで詳しく解説され、広く読まれた。鈴木一義『見て楽しむ江戸のテクノロジー』が描くように、からくりは見世物であると同時に、当時最先端の精密機械工学でもあった。

「自働化」——G型自動織機が実現した「一人で何十台」

時代は下って大正〜昭和初期。大工の家に生まれた豊田佐吉は、母や近所の女性たちが夜なべで手織りをする姿を見て育った。手織りは重労働で、しかも生産性が低い。この機を楽にできないかという素朴な動機から、1890年に木製人力織機を考案する。壮大な国家戦略があったわけではない。目の前の困りごとを解決したいという、きわめて個人的な出発点だった。

その後、動力織機の開発を重ね、1924年に完成形となるG型自動織機を発表する。G型の核心は、佐吉自身が「自働化」と呼んだ思想——ニンベンのついた自働化、つまり機械が自ら異常を判断して止まる仕組みにある。

具体的には三段構えだ。第一に、経糸・緯糸のどちらか一本でも切れると、その瞬間に機械が自動停止する検知装置。第二に、緯糸を通すシャトル(杼=ひ)の糸が残り少なくなると、機械を止めずに運転したまま新しいシャトルへ自動的に交換する「無停止杼換装置」——高速運転中でもスピードを落とさずに糸を補給できる、世界的に見ても画期的な機構だった。第三に、各種の安全・保護機構である。

この結果、生産性は従来の織機の約15倍に跳ね上がったと伝えられ、なにより意味が大きかったのは、それまで織工一人が3〜4台しか面倒を見られなかったのに対し、G型では一人で20〜30台を同時に見られるようになったことだ。機械が「異常を知らせる」から、人は「異常が起きたときだけ」駆けつければよい。これは単なる自動化ではなく、人の役割を「常時監視」から「例外対応」に変えるという、のちのトヨタ生産方式にまで受け継がれる発想の転換だった(大野耐一『トヨタ生産方式』)。

なぜ江戸でからくりは花開いたのか

ここで一段深く問いたい。なぜ日本では、他国に先駆けてこれほど精巧な機械仕掛けの人形文化が育ったのか。

理由の一つは、参勤交代が生んだ大消費都市・江戸の存在である。全国の大名は一年おきに江戸と国元を行き来し、江戸には諸藩の武家や家臣団が集住した。ある藩では歳出の大半が江戸での出費に費やされていたという試算も伝えられる。大名や豪商にとって、からくり人形は権威と財力を示す贈答品・座敷芸として格好の需要先だった。だから、からくり師という専門職が食べていける市場が江戸に成立した。

もう一つは、鎖国下でも時計技術だけは例外的に流入し続けたことだ。江戸幕府は貿易を長崎の出島に限定したが、そこを経由してヨーロッパの機械式時計(ゼンマイ・歯車・脱進機)は輸入され、国内の職人がそれを研究・模倣して「和時計」という独自の時計文化を作り上げていた。からくり師の多くは、この和時計づくりの技術者でもあった。時計という精密機械の技術基盤があったからこそ、それを応用した人形芸が可能になったのである。

三つ目は出版文化だ。江戸は寺子屋の普及で識字率が高く、木版印刷による出版物の流通網(貸本屋・書肆)が発達していた都市だった。だからこそ『機巧図彙』のような専門的な技術解説書が、特定の家や藩に囲い込まれることなく印刷・出版され、広く読まれるという環境が整っていた。技術が公開情報として広まったことが、後にこの技術を担う人材の裾野を広げる土壌になった。

からくり師たちが担った明治の機械工業

からくり儀右衛門と呼ばれた発明家・田中久重は、からくり人形づくりで名を上げたのち、和時計の最高傑作とされる「万年自鳴鐘」を製作し、明治に入ると電信機の製造を手がけて1875年に東京・銀座で工場を興した。これが田中製造所であり、のちに芝浦製作所となり、東京電気との合併を経て今日の東芝へとつながっていく。

江戸のからくりで培われた歯車・カム・ゼンマイの技術と、それを扱う職人の手が、明治になって輸入された西洋機械の解読・模倣・改良にそのまま生きた。娯楽のための精巧な仕掛けを作っていた技術者たちが、そのまま産業機械の技術者に転身できたことは、日本の近代工業化を語るうえで見落とせない伏線である。もし江戸期に歯車やカムを扱う職人という層がまったく存在しなかったら、輸入機械を前にした明治の技術者たちは、図面を読み解く手がかりすら持てなかったかもしれない。

遠州の綿織物、特許制度、そして自動車事業への種銭

豊田佐吉が生まれ育ったのは、遠江国(現・静岡県湖西市)——遠州と呼ばれる地域である。遠州は江戸時代から綿花栽培と手織りが盛んで、泉州(大阪)・三河(愛知)と並ぶ日本三大綿織物産地の一つに数えられた。佐吉の身近に「織機を求める市場」と「改良すべき現場」が最初からセットで存在していたことになる。母の手織りを見て育ったという逸話は、単なる親孝行の物語ではなく、この産地の環境そのものを映している。

もう一つの追い風は制度だ。日本では1885年に専売特許条例(今日の特許法の前身)が整備され、発明を独占的な権利として保護する仕組みが整った。佐吉は生涯で数十件の特許を出願する多作の発明家となるが、これは発明を「発表すれば誰かに模倣される」ものから「権利として資金化できる」ものに変えた制度があったからこそ可能だった。さらに1899年、旧三井物産が佐吉の動力織機の将来性を見込み、資本金を全額出資して販売会社・井桁商会を設立、以後も資金面で佐吉を支え続けた。技術だけでは事業にならない。それを事業化する資本と販路が、遠州という産地の外から供給されたのである。

そして1929年、G型自動織機の特許権は英国プラット社に譲渡される。総額10万ポンドを分割で受け取る契約で、最終的には8万3,500ポンドに減額されて決済されたと伝えられる。糸を紡ぐための機械が生んだこの対価が、佐吉の長男・豊田喜一郎による自動車事業の立ち上げ資金の一部となった。からくり人形から自動織機、そして自動車へ、さらに現代の産業用ロボットへ——技術は世代を超えて姿を変えながら受け継がれてきた。トヨタ産業技術記念館には、この木製人力織機からG型自動織機に至る実機がずらりと並べて展示されており、糸一本を検知して止まる機構を目の前で確認することができる。

発明は、事情・環境・他の道具が揃って初めて意味を持つ。織機という発明ひとつをとっても、遊び心を許す職人文化という土壌、綿花を育てる遠州という産地、特許制度と三井物産という資本の後ろ盾、輸入された西洋機械という手本——これだけの条件が揃って初めて、日本の機械工業は立ち上がることができた。豊田佐吉の物語は、天才ひとりの偉業である以上に、条件が重なった場所に発明が花開くという、このシリーズが繰り返し語ってきたテーマそのものである。

次回は… #29 そろばん——五百年現役の計算機

出典・参考文献

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