道具・発明の歴史

【道具・発明の歴史 #32】消えた道具・ガリ版——学校とサークルを支えた「個人の印刷機」

クイズをひとつ。グーテンベルクが活版印刷を実用化してから、個人が自分の手で「印刷機」を持てるようになるまで、何年かかっただろうか。答えは、およそ400年である。その間、印刷はずっと業者や役所、教会といった「組織のもの」だった。原稿を書いても、それを複製して人に配る手段は、資本を持つ者にしか許されていなかったのである。それを教室やサークルの片隅にまで持ち込んだのが、日本で独自に育った道具、ガリ版である。

印刷は長らく「業者のもの」だった

活版印刷(#4で触れた通り)は情報伝達を劇的に変えたが、その恩恵を受けられたのは資本を持つ印刷業者に限られていた。個人や小さな団体が「今日中に、少部数だけ、安く」文書を刷りたいと思っても、手段がなかった。学校のプリント一枚、サークルの会報一冊を作るにも、原稿を書いて業者に発注し、納品を待つほかない。急ぎの連絡や、部数の少ない身内向けの資料には、そもそも見合わない仕組みだった。この不便を解消する道具が生まれるのは、19世紀も終わりに近づいてからのことである。

「ガリガリ」の正体——蝋原紙が孔だらけになる仕組み

ガリ版の心臓部は、原紙(げんし)と呼ばれる薄い和紙にロウを染み込ませたシートだ。まずこの原紙を、表面に細かいヤスリ目を刻んだ鉄板「やすり盤」の上に置く。次に、インクの入っていない金属製のペン「鉄筆(てっぴつ)」で、原紙の上から文字をなぞって書いていく。

ここで起きているのは単純だが巧妙な物理現象である。鉄筆の先が原紙を押すたびに、下のやすり盤のギザギザが原紙のロウ層を細かく削り取る。文字をなぞった線の上だけ、ロウが剥げて紙の繊維がむき出しになり、目に見えないほど小さな穴が無数に開く。書いているときに紙面が「ガリガリ」と鳴るのはこのためで、これがそのまま道具の呼び名になった。

こうして「文字の形どおりに穴の開いた版」ができあがる。これを枠に張り、上からローラーでインクを転がすと、ロウが残っている部分はインクをはじいて通さず、穴の開いた部分だけをインクが通り抜けて下の紙に写る。つまり印刷される文字は「インクの塊」ではなく「無数の小さな穴を通り抜けたインクの集合」なのである。この仕組みは版に凹凸を刻む活版印刷や、水と油の反発を使う石版印刷とは原理がまったく違い、孔版印刷(こうはんいんさつ)——文字通り「穴の空いた版」を使う印刷方式——に分類される。一版で何百枚も刷れるのに、道具は鉄筆とヤスリ盤とインクとローラーだけ。これが、個人が印刷機を持てるようになった理由の核心だ。

エジソンのミメオグラフと堀井親子の一手

この孔版印刷の原型を最初に特許化したのは、発明家エジソンである。1880年、彼は「溝を刻んだ金属のヤスリ盤に原紙を載せ、鉄筆でなぞって製版する」方式で米国特許を取得し、「ミメオグラフ」と名付けた。ここまではガリ版と原理は同じだ。

ところがアメリカでの展開は、日本とは違う方向に進む。1888年、A・B・ディック社がタイプライターの打刻で原紙に穴を開ける技術の特許を買い取り、1894年には製版専用のタイプライター一体型機を発売した。英語のアルファベットは26文字に活字や鍵盤を用意すればよいので、タイプライターで打てば誰でも均一な字で速く製版できる。ミメオグラフは、鉄筆で手書きする道具から、オフィスで機械的に量産する道具へと性格を変えていったのである。

一方、堀井新治郎・耕造の親子は1894年、東京・神田に「謄写堂」を開き、日本語向けに改良した謄写版を売り出した。同じ年の3月には、蝋原紙そのものに関する特許も取得している。彼らが力を入れたのは、タイプライター化ではなく、鉄筆で手書きしたときに、複雑な漢字の細かい線までロウがきれいに剥げ、かすれずに版になる原紙の質を突き詰めることだった。漢字・かな交じりの日本語をタイプライターの鍵盤に収めるのはそもそも現実的ではない。だから堀井親子は、あくまで手書きの延長線上にある道具として謄写版を磨き上げた。これが「方式の違い」であり、後にガリ版が日本で独自の発展を遂げる出発点になる。

なぜ日本でここまで花開いたのか

謄写版が生まれた1890年代の日本は、1872年の学制発布から二十年余りが経ち、全国に小学校が急速に増えていた時期にあたる。学校が増えれば、教材プリントや試験問題を大量に用意する需要も膨らむ。しかし当時主流だった活版印刷は、この需要とは相性が悪かった。アルファベットなら数十種類の活字を用意すれば足りるが、漢字は数千種類の活字を鋳造・保管しなければならず、初期費用も設備も重い。学校が毎週配る数十枚のプリントのために、活字を組んで印刷所に発注するのは、コストにも時間にも見合わなかったのである。

そこに謄写版は、活版が苦手とする「少部数・低コスト・即日」という隙間にぴったりはまった。しかも謄写版は、もともと日本人が親しんできた「筆や鉄筆で手書きする」文化と地続きだった。教師や役人が自分の文字でそのまま版を作れるので、清書のために誰かに頼む必要もない。日清戦争・日露戦争のころには軍や新聞社、通信社が謄写版を使い始め、その後学校にも官庁にも急速に広がった。1899年には海外への輸出も始まっている。加えて、原紙とヤスリ盤、鉄筆、インク、ローラーという一式は驚くほど安価で、修理も部品交換も簡単だった。だから謄写業を始めるための開業資金は小さくて済み、町の文房具店や印刷店の片隅で謄写版を扱う小さな印刷業が全国各地に無数に生まれた。学制が生んだ「教材プリントを刷りたい」という需要、活版の弱点、手書き文化、そして安価な道具一式——これらが揃って初めて、謄写版は日本社会に深く根を下ろすことができたのである。

「一億総編集者」の時代——教室からミニコミ、労働運動まで

昭和の学校では毎日のようにガリ版刷りのプリントが配られ、独特のインクの匂いとともに記憶している人も多いだろう。教師が書いた癖のある文字がそのまま印刷される、いかにも手作りの温かみを持った紙面だった。用途は教室にとどまらない。趣味の同人誌や社内報、労働運動のビラ、さらには戦地で発行された手作りの新聞に至るまで、あらゆる場面でガリ版は使われた。

これは単なる便利な道具の普及にとどまらない、メディアのあり方そのものの変化でもあった。それまで「編集して刷って配る」という行為は、資本を持つ新聞社や出版社にしか許されていなかった。ガリ版は、それを紙一枚と鉄筆一本のレベルにまで引き下げた。組織に属さない個人や小さな集まりが、自分たちの言葉を自分たちの手で複製し、配ることができる——戦後に各地で生まれたミニコミ誌や同人誌、労働組合のビラは、まさにその実践だった。「ビラを切る」という言い回しが今も一部で使われるのは、原紙を鉄筆で「切る」ようにして版を作ったガリ版時代の名残である。安価な材料、扱いやすい仕組み、そして刷りたい人がいる現場が揃うことで、道具は初めて社会を動かす力を持つ。この組み合わせが、いわば「一億総編集者」とでも呼べる小さな民主的メディアの土台を、日本各地の教室やサークルに作り上げたのである。

コピー機に敗れて消え、アートとして生き残る

しかしガリ版の時代は長くは続かなかった。1960年代以降、ゼログラフィ方式のコピー機が普及し、さらに1980年代にはリソグラフのような高速印刷機が登場すると、鉄筆で原紙を切る手間も、インクで手を汚す作業も不要な新しい道具にあっという間に取って代わられた。コピー機は原稿をそのまま光学的に読み取って複製するので、鉄筆で一枚一枚版を切る手間もヤスリ盤も要らない。字がうまい・下手も関係なく、誰でも同じ品質で複製できる。少部数印刷という同じ土俵で比べたとき、「版を手作りする手間」対「原稿を置いてボタンを押すだけ」では勝負にならなかった。リソグラフはさらに、孔版印刷そのものの原理を電子的な製版に置き換え、ガリ版が担っていた「安くて速い少部数印刷」という役割を丸ごと引き継いだ。学校の印刷室からガリ版が姿を消すのに、さほど長い時間はかからなかった。

それでもガリ版は完全には消えていない。手書きの線がにじむ独特の風合いや、版画にも通じる素朴な質感が近年になって見直され、「ガリ版アート」として作品づくりに使う愛好者が今も細々と活動を続けている。効率という物差しでは新しい道具に負けても、道具が紙の上に刻んだ質感そのものは文化として生き残る。消えた道具の記憶は、こうして別の形で今も受け継がれている。

次回は…#33 消えた道具・ブラウン管——20世紀の「顔」だった真空管

出典・参考文献

  • 田村紀雄・志村章子『ガリ版文化史』新宿書房, 1985
  • エジソンのミメオグラフ特許(1876年・通説として。米国特許第224,665号は1880年取得ともされる)
  • 「謄写印刷の父」堀井新治郎の業績を紹介, 中央印刷株式会社(chuo-printing.co.jp)
  • ガリ版伝承館|新ガリ版ネットワーク(滋賀県東近江市・旧堀井家住宅洋館)
  • 堀井新治郎, 謄写版 各項, フリー百科事典『ウィキペディア』
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