道具・発明の歴史

【道具・発明の歴史 #34】火縄銃と種子島——世界一の銃大国が、銃を手放した話

クイズをひとつ。伝来からわずか数十年で世界有数の銃生産国になった国と、その同じ国が江戸時代に銃をほぼ手放してしまった国、実は同じ国だとしたらどうだろうか。答えは日本である。普通なら、一度手に入れた強力な武器を自ら手放すことなど考えにくい。だが火縄銃は、伝来し、国産化の壁にぶつかり、量産され、そして自ら表舞台から退場するという、珍しい一生をたどった道具である。この一挺の銃の物語を追うと、日本のものづくりの姿がくっきりと見えてくる。

二挺の銃、種子島に漂着する

伝えられるところによれば、1543年、種子島にポルトガル人を乗せた船が漂着した。彼らが携えていたのが、当時の日本人が見たこともない武器、火縄銃である。島主・種子島時堯はこの二挺の銃に大金を払って購入し、家臣に使い方を学ばせると同時に、刀鍛冶・八板金兵衛に命じて複製を作らせた。異国の道具を見て終わらせず、すぐさま解体し、仕組みを理解し、国産化に動いたところに、その後の展開を決定づける最初の一手があった。

装填十数の動作——なぜこの銃はこんなに手間がかかるのか

火縄銃の仕組みを知ると、まず驚くのはその面倒くささである。銃口から黒色火薬を注ぎ入れ、カルカ(銃口から弾と火薬を押し込む棒。槊杖・さくじょうともいう)で弾丸を奥まで突き固め、火皿(ひざら。点火用の口薬を乗せる小さな皿)に口薬を盛り、蓋を閉じる。火のついた火縄を、火挟み(ひばさみ。火縄を挟んで狙いを定める金具)に取り付け、狙いを定めて引き金を引くと、火挟みが火皿に落ち、口薬に着火した炎が銃身内の火薬まで伝わって発射される——ここまでおよそ十数の動作を、一発ごとに繰り返す必要があった。弓矢なら次の矢をつがえるだけで済むところを、火縄銃は火薬・弾・点火という三つの工程を毎回組み立て直さねばならない。だから初期の火縄銃は連射に弱く、雨や風にも弱かった。のちに弾丸と一回分の火薬をあらかじめ紙で包んでおく早合(はやごう)が考案され、装填時間はいくらか短縮されたが、それでも弓矢の速射性には及ばない。戦国の武将たちは、この「遅い」という弱点を、後述するように大量の銃と組織的な運用でねじ伏せることになる。

尾栓のネジという壁

だが複製は簡単ではなかった。銃身の後端をふさぐ尾栓(びせん)、これをネジで固定する構造だったのだが、日本の鍛冶にはネジを切る技術がなかったのである。刀や農具を鍛える技はあっても、螺旋状の溝を切るという発想そのものが、当時の日本にはまだ存在しなかった。金兵衛は当初、尾栓を鍛接、つまり熱して打ち付けて固定する方法で仕上げたが、発射のたびに尾栓が吹き飛んだり破損したりする失敗が続いたと伝えられる。刀鍛冶・八板金兵衛が娘・若狭を代償にポルトガル人から製法を学ばせ、一年ほどでネジ切りの技術を持ち帰らせたという逸話が伝わっているが、これを裏づける同時代の記録は残っておらず、あくまで伝承として受け止めておきたい。確かなのは、この一本のネジが国産化最大の壁になったという事実である。以前このシリーズでネジと旋盤を取り上げた際、ネジは精度が精度を生む連鎖の起点だと書いたが、火縄銃の国産化においても、たった一本の小さならせん構造が、量産という次の段階へ進めるかどうかを分ける関門になっていた。

硝石を作れない国——輸入と、床下の土に頼った自給

装填の中身である火薬にも、日本ならではの弱点があった。以前このシリーズで扱ったように、火薬の主原料である硝石(しょうせき。加熱すると酸素を放出し、燃焼を強力に後押しする白い結晶)は、乾燥した土地でこそ地表近くに濃縮されやすい。ところが日本は雨の多い湿潤な気候で、天然の硝石はほとんど採れない土地だった。そこで戦国期の日本は、南蛮貿易を通じて中国や東南アジアから硝石を輸入することに頼らざるを得なかった。火薬の量は、輸入船の入港量に左右される不安定なものだったのである。

この弱点を、江戸時代の日本は時間をかけて自力で埋めていく。ひとつは古土法(こどほう)と呼ばれる方法で、長年人が住んだ家屋の床下の土——尿や排泄物がしみ込み、硝酸塩が蓄積した土——を掘り出し、水に浸して煮詰め、硝石の結晶を取り出す。もうひとつが、加賀藩五箇山や飛驒白川郷などで発達した培養法で、床下に穴を掘り、乾燥させた草や蚕(かいこ)の糞、土を交互に積み重ねて数年がかりで発酵させ、人工的に硝酸塩を作り出すという方法である。培養法は古土法に比べて数倍の収量が得られたとされ、幕府や諸藩はこの製法を機密として扱った。合掌造りの大きな屋根の下で養蚕と硝石づくりが同時に営まれていたのは、この培養法があったからだと伝えられる。輸入頼みだった原料を、山あいの集落の床下で何年もかけて「育てる」ことで自給に近づけていった過程は、火薬という発明が地理条件に左右される道具であることを、日本の側からも裏づけている。

たたら製鉄という土壌があったから

ネジの壁を越え、硝石の目処が立ったあと、日本の銃づくりは驚くべき速さで進んだ。その背景にあったのが、刀剣づくりで磨かれてきたたたら製鉄(砂鉄を炉で還元して鋼を得る日本古来の製鉄法)と鍛造の技術である。良質な砂鉄から鋼を作り、それを打ち鍛えて武具に仕上げる土壌が、すでに日本には数百年分積み上がっていた。火縄銃という新しい道具は、まったくのゼロから生み出す必要がなく、既存の製鉄と鍛造という技術基盤に乗ることができたのである。

この技術基盤の上に、堺・国友・根来という三つの生産地が立ち上がった。堺は商人・橘屋又三郎が製法を持ち帰ったのを機に、港町としての流通力と資金力を生かして一大産地に育った。近江の国友は、銃身を鍛える鍛冶だけでなく、台座を作る台師、機関部の「からくり」を組む職人、金具師や象嵌師まで分業体制を整え、村ぐるみで量産する仕組みを作り上げた。紀州の根来もこれに続いた。つまり日本の鉄砲は、一人の名工が一挺ずつ仕上げる工芸品としてではなく、金属加工の蓄積・商業資本・分業生産という三つの条件が揃うことで、初めて量産品になれたのである。そこに戦国という、大名同士が絶えず武力を競い合う巨大な需要が重なった。1575年の長篠の戦いでは、大量の鉄砲が組織的に運用されたことが広く知られている。発明は、事情・環境・他の道具が揃って初めて意味を持つ——このシリーズを貫くテーマそのままに、火縄銃は伝来という事情と、たたら製鉄・分業生産・戦国の需要という道具や条件が揃って初めて、日本の戦い方を変える力を持ったのである。

銃を手放した江戸という選択

ところが、天下が統一され戦乱が収まると、銃は社会の表舞台から静かに退いていく。歴史家ノエル・ペリンは著書『鉄砲を捨てた日本人』の中で、江戸時代の日本が銃を事実上放棄していったという見方を示した。ただしこの説には、刀と鉄砲を対立させる図式が単純すぎるという批判もあり、議論の分かれる説であることは付け加えておきたい。実際に起きたのは、放棄というより統制である。江戸幕府は関所での鉄砲の持ち込みを厳しく取り締まり、5代将軍綱吉の時代の1687年には「鉄砲改」という役職を設けて庶民の鉄砲所持をさらに締め上げた。一方で堺と国友の鉄砲鍛冶は取り潰されるどころか幕府の御用鍛冶として存続し、毎年決まった数の鉄砲を納め続けている。つまり銃という道具そのものが消えたのではなく、誰が持ち、誰が作り、どこで使えるかという条件が、幕府によって細く絞られていったのである。

そこに重なったのが、武士という身分制度と、刀という道具が持っていた文化的な地位である。太平の世が続き、対外戦争もほぼ途絶えたことで、武器は実戦の道具である以上に、身分を示す象徴としての意味を強めていった。刀は帯びる者の身分そのものを表す道具になり、性能では優れていたはずの銃は、そうした社会的な威信を最後まで持てなかった。道具の運命は、性能だけでなく、太平の世という事情、身分制度という制度、対外戦争の不在という条件がそろって初めて決まる——火縄銃の後半生は、その原則をそのまま体現している。

番外編、道具たちが語ってきたこと

伝来、国産化、量産、そして統制のもとでの表舞台からの退場。火縄銃の一生は、日本のものづくりが持つ二つの力を映し出している。和釘、からくり、そろばん、漆、計算尺、ガリ版、ブラウン管、そして火縄銃——ここまで見てきた番外編の道具たちは、それぞれ違う時代・違う場面に生まれながら、同じ二つの力を証明してきた。一つは、伝来した技術や既存の技術基盤、輸入に頼れない原料といった条件を、時間をかけてでも粘り強く揃え、自分たちの道具に育て上げる力である。尾栓のネジを一年で乗り越え、輸入頼みだった硝石を床下の土から作り出したように、足りないものを外から取り入れ、あるいは自分たちの手で作り出す粘り強さが、その根にあった。もう一つは、条件が変わったとき、その道具にどう向き合うか、使い続けるのか、姿を変えるのか、それとも手放すのかを、自分たちの手で選び取る力である。江戸幕府が銃を統制し、刀を社会の象徴として残したように、道具の扱いを決めるのは性能だけではなく、その道具を取り巻く社会の側でもあった。

日本のものづくりは、条件を揃える力と、条件が変わったときに身の処し方を選ぶ力の歴史だった。道具は与えられて終わりではなく、使いこなされ、極められ、そして時に手放されることで、初めて一つの物語を完結させる。番外編はここでいったん筆を置くが、道具が語る「事情・環境・他の道具が揃って初めて意味を持つ」というこのシリーズのテーマは、次にどんな道具を取り上げても変わらず貫かれていく。

シリーズはリクエストに応じて続きます。

出典・参考文献

  • 洞富雄『鉄砲——伝来とその影響』思文閣出版
  • 宇田川武久『鉄砲伝来——兵器が語る近世の誕生』中公新書, 1990
  • ノエル・ペリン『鉄砲を捨てた日本人——日本史に学ぶ軍縮』中公文庫, 1991
  • 所荘吉『火縄銃』雄山閣, 1993(火縄銃の構造・装填手順に関する基本文献)
  • 柿沼孝司・野澤直美「硝石製造法の史学的調査と実験的検証に関する研究——わが国における3種の硝石製造法の比較」『薬史学雑誌』55巻2号, 2020, pp.179-193(古土法・培養法の比較研究、J-STAGE)
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