クイズをひとつ。世界最大量産された真空管は何か、ご存じだろうか。ラジオの部品でも、アンプの心臓部でもない。答えは、かつてどの家庭のリビングにも鎮座していた、あの分厚いテレビの中身——ブラウン管である。
前々回、前回と、真空管を置き換えたトランジスタ、そして印刷を支えたガリ版と、姿を消した道具を追いかけてきた。だが不思議なことに、トランジスタが真空管を駆逐した後も、ブラウン管だけは半世紀近く現役であり続けた。なぜ、これほど巨大で重く、電力も食う真空管が、テレビという最重要家電の座に居座り続けられたのか。そして、なぜ21世紀に入るとわずか数年で液晶に取って代わられたのか。今回は「消えた道具」編第3弾として、ブラウン管の仕組みと栄光、そして退場の構造を追う。
陰極線管からテレビへ
ブラウン管の原型は、1897年にドイツの物理学者カール・フェルディナント・ブラウンが発明した陰極線管(CRT)にさかのぼる。真空中で電子を発生させ、それを電場や磁場で曲げてスクリーンの蛍光面にぶつけると、ぶつかった場所が光る。この単純な原理が、後に映像を映し出す技術の土台になった。
ブラウンが発明した当初、これはあくまで電気信号を波形として可視化する測定器の部品だった。それが「映像を送る装置」に育っていくには、走査線という発想——画面を細かい横線に分解し、電子ビームを高速で左右上下に走らせて絵を描くという仕組みが必要だった。
電子銃は、どうやって「絵」を描くのか
ブラウン管の中身を分解すると、原理は驚くほどシンプルだ。まず後方に電子銃(でんしじゅう)——真空中で金属を熱し、飛び出してくる電子を細いビーム状にまとめて撃ち出す部品がある。名前の通り、電子の粒を銃弾のように前方へ発射する装置だと考えればいい。
だが、電子ビームがまっすぐ進んで画面の一点にぶつかるだけでは、光る点がひとつ浮かぶだけで絵にはならない。そこで働くのが偏向コイル(へんこうコイル)——ブラウン管の首の部分に巻かれた電磁石で、流す電流の強さと向きを変えることでビームの進む角度を磁力で曲げる部品である。この電流を1秒間に何十回もこまかく変化させることで、ビームは画面を左から右へ、上から下へと高速でなぞっていく。これが走査(そうさ)——画面を横に細長い線の集まりとして分解し、電子ビームで上から順になぞって全体の絵を描く方式だ。走査線でなぞられた蛍光面は、ぶつかったエネルギーを光に変える蛍光体(けいこうたい)という物質が塗られており、電子が当たった瞬間だけ光る。人間の目には、その無数の光点と残像が重なり合って、動く映像として見える仕組みだ。
カラー化はこの延長線上にある。光の三原色である赤・緑・青の蛍光体を画面に規則正しく並べ、電子銃も色ごとに3本用意する。問題は、赤用のビームが誤って緑の蛍光体に当たってしまえば色が濁ることだ。そこで1951年にアメリカのRCA社が実用化したのがシャドウマスク方式——蛍光面の手前に数十万個の微細な穴をあけた金属板を置き、各電子銃から出たビームが、その角度によって決まった色の蛍光体だけを通り抜けて当たるよう設計する仕組みである。3色の光が近距離で混ざり合うことで、人の目にはフルカラーの映像に見える。ただしこの方式は発射した電子の約8割がマスクに当たって熱に変わってしまうという非効率も抱えていた。この「電子銃・偏向・蛍光体」という組み合わせこそが、後述する薄型化の限界にも直結してくる。
「イの字」が映った日——高柳健次郎の先見
この走査線方式によるテレビ実験に世界で先駆けて成功したのが、日本人技術者・高柳健次郎である。1926年12月25日、浜松高等工業学校(現・静岡大学)の研究室で、高柳は電子式の受像機に「イ」の文字を映し出すことに成功した。
技術的に重要なのは、彼が受信側(受像機)を丸ごと電子式のブラウン管に切り替える選択をした点だ。当時、世界のテレビ研究の主流は機械式——回転する円盤(ニポー円盤)にあけた穴を通して光を機械的に走査する方式だった。実際、イギリスのジョン・ロジー・ベアードは機械式テレビの開発で先行し、BBCも当初はベアード方式を採用していた。だが機械式は、円盤を高速で正確に回し続けなければならず、解像度を上げようとすると円盤の穴の数や回転精度が物理的な壁にぶつかる。事実、BBCは1936年、ベアードの走査線240本の機械式システムを見限り、EMI・マルコーニ陣営の電子走査方式(405本)へと切り替えた。可動部品を持たない電子ビームは、原理上はるかに細かく速く走査でき、故障もしにくい——高柳が受像側の全電子化にこだわったのは、この解像度と信頼性の伸びしろを見抜いていたからだった。機械式が世界の主流だった時代に電子式を選んだという判断そのものが、彼の技術者としての先見性を示している。
とはいえ、一つの技術が実用化されるまでには、さらに長い年月がかかった。高柳の実験成功から日本でテレビ放送が始まるまで、実に四半世紀以上を要している。技術そのものが完成しても、放送網、受信機の量産体制、家庭が買える価格という条件がすべて揃わなければ、道具は世に出られない。これは本シリーズが繰り返し見てきた事実、すなわち発明は、事情・環境・他の道具が揃って初めて意味を持つという原則そのものである。
なぜ日本がテレビで世界を制したのか
戦後の日本でテレビが爆発的に普及した背景には、技術力だけでは説明できない社会的な起爆剤があった。1950年代後半、白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫は「三種の神器」と呼ばれ、高度経済成長のもとで所得が伸びる家庭の憧れの的になっていた。その普及に決定的な一撃を与えたのが1959年4月10日、皇太子明仁親王(現上皇)のご成婚パレードである。「その姿をどうしても自宅のテレビで見たい」という国民の欲求が購買を後押しし、パレード直前にはNHKの受信契約数が200万件を突破した。白黒テレビの普及率は1957年の7.8%から1965年には95.0%へと、わずか8年で跳ね上がっている。
続く1964年の東京オリンピックは、カラーテレビにとって同じ役割を果たした。世界初の「テレビオリンピック」と呼ばれたこの大会は、20種目中16種目がカラー中継され、それまで年間数千台規模だったカラーテレビの販売台数を一気に押し上げた。1966年に52万台、1967年には128万台と倍増を続け、やがて「カー・クーラー・カラーテレビ」の3Cが新・三種の神器として家庭に浸透していく。
需要だけでは産業は育たない。それを支えたのが、メーカーが自社の看板を掲げた系列電器店をきめ細かく全国に展開し、修理からローン相談まで面倒を見る流通網だった。加えて政府もテレビを含む家電を戦後日本の輸出産業の柱と位置づけ、生産設備への投資や技術開発を後押しした。「爆発的な需要」「系列販売網による隅々までの供給」「輸出産業としての国策」という三つの歯車がかみ合ったことで、日本の家電メーカーはブラウン管という一部品をめぐる技術競争を制し、世界市場の頂点に立ったのである。
電子銃の限界、そして液晶というゲームチェンジ
しかしブラウン管には、原理そのものに起因する物理的な壁があった。電子銃から蛍光面まで電子ビームを正確に飛ばし、偏向コイルで隅々まで曲げきるには、ある程度の奥行き(距離)がどうしても必要になる。画面を大きくすればするほど、必要な奥行きと、内部の巨大な電磁石・ガラス管の重量が比例して増していく。ブラウン管を薄くすることは、電子を飛ばして曲げるという原理を維持する限り、突き詰めれば不可能に近かった。
一方、液晶は電子銃も偏向コイルも要らない。電圧をかけると分子の向きが変わり、光の透過量を画素ごとに調整するという、まったく別の発光・制御原理で映像を作る。そしてこの違いが、産業の勝敗を決定づけた。ブラウン管は真空管とガラス加工の技術であり、日本の家電メーカーが強みを持つ領域だった。ところが液晶パネルの製造は、ガラス基板の上に微細な回路を焼き付ける工程が中心で、実質的には半導体製造装置の応用分野になる。つまり液晶への転換は「画質を競う勝負」から「巨額の設備投資をどこまで賭けられるかの投資競争」へとゲームのルールそのものが変わったのだ。1998年、シャープの町田勝彦社長(当時)は国内向けブラウン管テレビを2005年までに全廃すると宣言し、液晶に社運を賭けた。だが韓国・台湾勢も同じ土俵で巨大なガラス基板への投資合戦を仕掛け、台湾メーカーの生産能力シェアは1998年の1割未満から2004年には約4割にまで拡大する。その後、投資体力でさらに勝るのは韓国、そして中国のメーカーだった。2000年代に液晶やプラズマが実用化されると、ブラウン管は数年という短いスパンで市場から押し出され、日本が磨き上げたブラウン管の生産設備・熟練技術者・部品供給網はまるごと過去のものになっていった。
ここには、技術転換期によく見られるパターンが潜んでいる。ブラウン管で世界一だったメーカーほど、その巨大な設備投資と成功体験、そして「もっと画質を良くすれば売れる」という発想から抜け出しにくく、液晶という異なる原理への転換判断が遅れがちだった。優れた技術・製品を持つ企業ほど、既存事業の改良に資源を注ぎ込み、まったく別の原理を持つ新技術への対応が後手に回ってしまう——経営学で「イノベーターのジレンマ」と呼ばれる現象である。極めるほど身動きが取れなくなるという皮肉が、ブラウン管から液晶への交代劇にもそのまま当てはまっていた。
計算尺が電卓に、ガリ版が輪転機やコピー機に取って代わられたように、ブラウン管もまた、完成度を極めた道具ほど、原理そのものが転換される波には抗えないという教訓を残して姿を消した。条件が変わることに備え続けること——それこそが、ものづくりに携わる者にとっての生存戦略なのだろう。
次回は「#34 火縄銃と種子島——世界一の銃大国が、銃を手放した話」番外編最終回をお届けする。
出典・参考文献
- 高柳健次郎『テレビ事始——イの字が映った日』有斐閣, 1986
- NHK放送博物館 展示資料(Web)
- 静岡大学高柳記念未来技術創造館「高柳健次郎アーカイブ」
- 公益財団法人 浜松電子工学奨励会「高柳健次郎の歩んだ道」
- 発見と発明のデジタル博物館「大型カラーテレビのブラウン管用シャドウマスク」(国立情報学研究所)
- Wikipedia「BBCテレビジョン」「ジョン・ロジー・ベアード」
- ビデオリサーチ「ビデオリサーチ60年の歴史 第1部 音・メディア時代の幕開け」
- 日経ビジネス「シャープ、鴻海傘下入り(3)ブラウン管の無念は液晶で晴らす」