道具・発明の歴史

【道具・発明の歴史 #15】電信——情報が初めて「モノより速く」移動した日

クイズをひとつ。手紙とうわさ話、遠くの町に速く届くのはどちらだろうか。答えは、19世紀半ばまでは「どちらも同じ」だった。手紙は馬に乗り、うわさ話は人の口に乗る。運ぶ乗り物が違うだけで、情報は結局、人か馬か船の速度でしか動けなかったのである。電信は、この当たり前を初めて壊した発明だった。

情報は、モノと同じ速さでしか動けなかった

19世紀初頭までの人類にとって、情報とモノは基本的に同じ速度で移動するものだった。ロンドンで書かれた手紙がニューヨークに届くには、船で数週間かかる。その船が沈めば、情報もろとも失われる。情報を運ぶには、必ず何か物理的な媒体——紙、人、馬——が要った。

唯一の例外が、フランスで実用化された腕木通信、いわゆるシャップ式通信である。丘の上に建てた塔に可動式の腕木を取り付け、その形の組み合わせで文字や記号を表す。次の塔がそれを望遠鏡で読み取り、また次の塔へ中継する。ナポレオン時代のフランスでは、パリから数百キロ先まで、わずか数分で信号が届いたという。画期的な仕組みだが、弱点も大きい。晴れた昼間しか使えず、霧や夜には無力だった。塔を維持する人員と費用もかさむ。腕木通信は、電信が実用化されるまでの「つなぎ」として歴史に一瞬だけ姿を見せ、静かに退場していく。

弱った信号に、新しい電池を継ぎ足す——電磁石とモールス符号の設計思想

電気を使って情報を送るという発想自体は、18世紀末から複数の科学者が試みていた。だが実用レベルまで持っていったのは、画家から発明家に転身したサミュエル・モールスである。1844年、ワシントンとボルチモアの間に敷設された電信線を使い、モールスは最初の公式メッセージを送った。「神は何を成し給うたか(What hath God wrought)」という一文である。数十キロ離れた相手に、ほぼ瞬時に文章が届く。これは当時の人々にとって、魔法としか言いようのない出来事だった。

だが、電線を延ばせば延ばすほど電流は弱くなる。銅線にも電気抵抗があるからだ。数十キロならまだしも、数百キロ先まで信号を送ろうとすると、届くころには電流が弱まりすぎて、受信機の針を動かす力すら残らない。この壁を破ったのが、電磁石を使った「リレー(中継器)」である。仕組みは意外なほど単純だ。弱った電流でも、電磁石の芯に巻いたコイルを磁化させるくらいの力は残っている。その磁力で小さな金属の腕(アーマチュア)を引き寄せ、隣に置いた別のスイッチをオンにする。このスイッチは、まったく別の新しい電池につながっている。つまりリレーは、弱った信号そのものを増幅するのではなく、「弱った信号をきっかけに、新しい電池のスイッチを入れ直す」装置だった。駅伝ランナーが疲れた腕でタスキを渡し、次の走者が新しい脚力で走り出すのと同じ原理である。この中継を何十カ所でも繰り返せば、理屈の上では電信線をどこまでも延ばせる。大陸を横断する電信網は、この地味な部品なしには存在しえなかった。

信号を運ぶ符号の設計にも、同じくらい実務的な工夫が隠れている。モールスの相棒だったアルフレッド・ヴェイルは、どの文字に短い符号を割り当てるべきかを考えるとき、印刷所に足を運んだと伝えられる。活字を組む印刷所では、よく使う文字の活字ほど大量にストックしておく必要がある。逆に言えば、活字ケースの中で山が高い文字ほど、実際の文章でよく使われている文字だということだ。ヴェイルはこの活字の在庫量を数え、英語の文字使用頻度の目安とした。その結果、最も高い山を築いていたE(そしてT)に、電信で最も短い符号——Eはトンとひと打ちだけ——が割り当てられた。使用頻度の低いQやZには、長く複雑な符号が回された。よく使う文字ほど早く打てて早く伝わる。単純だが合理的なこの設計思想のおかげで、モールス符号は乱立していた他の電信方式を退け、世界標準の座を勝ち取っていく。

なぜアメリカで、電信はこれほど速く広がったのか

モールスの実験線は、実は最初から順風満帆だったわけではない。1843年、連邦議会はワシントン—ボルチモア間の実験線建設費として3万ドルを予算化したが、これは議会でも際どい賛否だったと伝えられる。それでも予算がついた背景には、アメリカならではの事情があった。ヨーロッパの主要国が数百キロ四方に収まるのに対し、アメリカは東海岸から西海岸まで数千キロ、当時の主要都市間だけでも移動に何日もかかる広さを持つ。手紙や馬による情報伝達の遅さが、国の運営そのものの足かせになっていたのである。

決定打になったのは、鉄道だった。1850年代のアメリカの鉄道は、コストを抑えるためにほとんどが単線、つまり上りと下りの列車が同じ一本の線路を共用していた。単線では、時刻表どおりに走らせるだけでは正面衝突の危険が常につきまとう。天候の乱れや故障で1本でも列車が遅れれば、対向列車がどこにいるかを誰も把握できなくなるからだ。電信は、この切実な安全問題を一気に解決した。駅の管理者が「この区間に列車が入った」「通過した」と逐一電信で報告し合えば、離れた駅同士でも今どこに列車がいるかをリアルタイムで共有できる。その結果、単線のままでも上下線を安全に運行できるようになった。鉄道会社にとって電信は、単なる便利な通信手段ではなく、複線化という莫大な投資をせずに済ませるための代替インフラだったのである。だからこそ鉄道会社は競うように電信線の敷設を後押しし、電信網は線路づたいにアメリカ大陸を駆け抜けていった。

大西洋の底に、失敗を沈めて

陸上の電信網が各国で広がる一方、次なる野望は海の向こうだった。イギリスとアメリカを電信線でつなぐ、大西洋横断ケーブルである。1858年、幾多の困難の末についにケーブルが敷設され、ヴィクトリア女王とアメリカ大統領の間で祝賀のメッセージが交換された。世界中が熱狂した。ところが、その興奮はわずか数週間しか続かなかった。絶縁の劣化と過大な電圧の印加によって、ケーブルはあっけなく機能を停止してしまう。

巨額の資金と技術者たちの執念は、ここで終わらなかった。南北戦争を挟んで再挑戦が重ねられ、1866年、ついに実用に耐える大西洋横断ケーブルが本格開通する。一度の成功で満足せず、失敗の原因を分析し、より太く、より頑丈なケーブルと、より安定した電圧管理で再挑戦する。この執念こそが、海底ケーブルという巨大インフラを現実のものにした。

帝国の電線——グッタペルチャと「レッドライン」の情報覇権

海底ケーブルには、陸上の電線にはない難題があった。海水に何十年も浸かり続けても腐食せず、電気を通さない絶縁材が要る。この条件を満たしたのが、グッタペルチャ——マレー半島やスマトラ、ボルネオに自生するアカテツ科の木から採れる樹液を固めた、天然のプラスチックのような物質である。ゴムに似ているが海中でも劣化しにくく、加工もしやすい。イギリスの会社がマレー半島の植民地からこの樹液を独占的に輸入し、大西洋ケーブル一本を包むだけで何千本もの木が必要とされた。世界中に電信網が広がるほど木は伐採され尽くし、供給地では深刻な森林破壊が進んだと指摘されている。電信という「情報のインフラ」は、その足元で植民地の自然資源に丸ごと依存していたのである。

この構造は、ケーブルの敷設ルートにも表れた。イギリスは、自国の植民地や勢力圏だけを経由するようにケーブルを張り巡らせる方針をとった。地図上でイギリス領を赤く塗ると、ケーブルの線が赤い領土だけをたどって世界を一周するように見える——後にこの世界規模のネットワークは「オール・レッド・ライン」と呼ばれるようになる。1902年には太平洋を横断する区間も完成し、イギリス本国からカナダ、オーストラリア、ニュージーランド、そしてアジアの植民地までが、他国の領土を経由せずに電信で結ばれた。この体制の強さは、後の第一次世界大戦で証明される。開戦直後、イギリス海軍はドイツの海底ケーブルを次々と切断した。ドイツは主要な国際通信手段を一夜にして失い、中立国経由か、傍受されやすい無線に頼らざるを得なくなる。一方のイギリスは、複数ルートに分散させたオール・レッド・ラインのおかげで通信網を保ち続けた。電信網を制する者が情報を制し、情報を制する者が外交と戦争を有利に進める——海底ケーブルは、19世紀のうちにこの現実を証明していたのである。

ヴィクトリア朝のインターネットと、「先回り」する情報

電信網が世界中に張り巡らされると、社会はそれまで経験したことのない現象に直面した。象徴的なのが、1866年の大西洋ケーブル開通が綿花市場に与えた影響である。経済学者の研究によれば、ケーブル開通前、ニューヨークとロンドン(リバプール)の綿花価格には1ポンドあたり平均2.56ペンスの差があった。船で情報を運んでいた時代は、この価格差を知るまでに数週間かかり、その間に安く買って高く売る「裁定取引」——同じ商品の価格差を見つけて利ざやを稼ぐ取引——で稼ぐ余地が大きかった。ところがケーブル開通後、価格差はわずか1.65ペンスまで縮んだ。情報が瞬時に行き交うようになったことで、価格差そのものが消えていったのである。

ニュースの世界でも同じことが起きた。電信を武器に急成長したのが、通信社ロイターである。創業者ポール・ロイターは、当初アーヘンとブリュッセルを結ぶ電信線の切れ目を伝書鳩で埋め、鉄道より6時間も速く株価情報を届けていた。電信網が延びると鳩は不要になり、ロイターはヨーロッパ中に電信で情報網を張り巡らせる。1865年、リンカーン大統領暗殺のニュースは、大西洋を渡る郵便船をロイターの代理人がアイルランド沖で待ち構えて聞き出し、そこから陸の電信網に乗せてロンドンへ打電された。ヨーロッパの新聞各紙より先に、そして市場よりも先に届いたこの一報は、ヨーロッパの金融市場を混乱させたと伝えられる。新聞は数日前の海外ニュースではなく、その日のうちに世界の出来事を報じられるようになり、外交官は本国の指示を待たずに現地で判断する時代から、逐一電信で指示を仰ぐ時代へと変わっていく。

だが光の面だけではない。電信を使った詐欺や偽情報も瞬時に広がるようになり、顔も見たことのない相手と電信でやり取りを重ねる遠距離の恋愛や結婚話まで生まれた。イギリスの作家トム・スタンデージは、こうした19世紀の電信社会を評して「ヴィクトリア朝時代のインターネット」と呼んだ。速報性、詐欺、投機、匿名の出会い——現代のインターネットで議論される社会問題の多くが、実は電信の時代にすでに出そろっていたのである。

ここで見逃せないのが、電信線が敷設されたルートである。多くの国で、電信線は前回取り上げた鉄道網に沿って延びていった。線路の脇には管理しやすい土地があり、駅という拠点があり、保守の人員もいる。発明は、事情・環境・他の道具が揃って初めて意味を持つという本シリーズのテーマは、ここでも姿を現す。電気という技術と符号という工夫だけでは、電信網という社会インフラは生まれない。鉄道というすでに敷かれたインフラの上に重なり、単線運行という切実な需要に応え、植民地の資源と帝国の思惑まで巻き込んで、初めて電信は大陸規模・地球規模で機能したのである。

情報がモノの速度から解き放たれた日、人類はモノと情報を初めて別々のものとして扱い始めた。この分離こそが、現代の情報社会の出発点だったといえる。

次回は、#16 写真——「見たまま」を保存する化学。

出典・参考文献

  • トム・スタンデージ『ヴィクトリア朝時代のインターネット』NTT出版, 1999
  • ジェイムズ・グリック『インフォメーション——情報技術の人類史』新潮社, 2013
  • EH.net(Economic History Association)「History of the U.S. Telegraph Industry」(鉄道の単線運行と電信、連邦議会予算に関する記述)
  • PK Porthcurno(旧ケーブル・アンド・ワイヤレス通信博物館)「Gutta-Percha: Ecological Impacts and Unsustainability」
  • Amusing Planet「All Red Line: The British Empire's Secret Weapon of Communication」
  • Claudia Steinwender, "Real Effects of Information Frictions"(大西洋ケーブル開通と英米間の綿花価格差に関する経済学研究)
  • THE BARON「History」(ロイター通信社史、創業期の伝書鳩・電信活用とリンカーン暗殺報道に関する記述)
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