道具・発明の歴史

【道具・発明の歴史 #26】インターネットとGPS——軍事研究が「無料の道具」になるまで

スマートフォンで地図アプリを開き、現在地を確認する。今日、私たちが何気なく無料で使っているこの機能——「どこにいるか」と「どこへでもつながるか」——は、もとをたどれば冷戦下の軍事研究にたどり着く。インターネットもGPSも、生まれたときは兵器と国防のための技術だった。それがなぜ、世界中の誰もが無料で使える公共インフラになったのか。答えは技術そのものではなく、技術の外側にある事情にある。

電話型と小包型——パケット交換の正体

1957年、ソ連の人工衛星スプートニクの打ち上げに衝撃を受けた米国は、翌年ARPA(高等研究計画局)を国防総省内に設立する。ARPAが資金を出した研究の一つが、後にインターネットの原型となるARPANET(アーパネット)だった。

その設計の核心にあったのが、パケット交換という発想の転換である。これは「電話型」と「小包型」の違いだと考えるとわかりやすい。従来の電話回線は「電話型」だ。手紙を1通まるごと、送り主から届け先まで専用の道路を1本借り切って運ぶようなもので、通話が続くあいだ、その回線は他の誰にも使わせない。だから同時に使える人数には限りがあり、途中の道が一箇所でも壊れれば通信そのものが止まってしまう。

これに対しARPANETが採用したのは「小包型」だった。1通の手紙をページごとにバラバラにして、それぞれを「パケット(小包)」という荷物に詰め、宛先ラベルを貼って、別々の道を通して送り出す。荷物はどの道を通ってもよく、途中の道が渋滞したり壊れたりしていれば別の道を選べばいい。宛先に届いた荷物は、ページ番号を頼りに元の手紙として組み直される。一本の道を独占しないから、大勢が同じ回線を同時に使えるし、一部が壊れても迂回できる。この発想を理論化したのがランド研究所のポール・バランで、彼の研究は後にARPANETの設計にも取り入れられた。

1969年10月29日、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)とスタンフォード研究所(SRI)のあいだで、最初の接続実験が行われた。研究者がリモートで「LOGIN」と打ち込もうとしたところ、「LO」の2文字を送ったところでシステムがクラッシュした。世界初のネットワーク通信は、たった2文字で落ちたのである。この不格好な第一歩から、ARPANETは学術ネットワークとして育っていく。

「核攻撃に耐える通信網」と「計算機を分け合いたい」——冷戦が生んだ二つの動機

なぜ、わざわざ回線を独占しない・迂回できるネットワークを考える必要があったのか。よく語られるのは、核戦争を想定した軍の要請という説明だ。ポール・バランがランド研究所で構想したのは、核攻撃で通信網の一部が破壊されても、残った部分だけで通信を続けられる「生き残る通信網」だった。中央に司令塔を置く従来型の通信網は、その司令塔を潰されれば全滅する。だから経路を分散させ、どこが壊れても迂回できる仕組みが必要だった——これが軍事的な動機である。

ただし、ARPANET計画を実際に主導したのはARPA内の情報処理技術部門であり、彼らを突き動かしていたのは核戦争への備えというより、もっと地味な現実の問題だった。当時のコンピューターは1台が部屋を占領するほど巨大で高価で、大学や研究所ごとに別々の高価な計算機を抱えていた。せっかく別の大学に強力な計算機があっても、そこまで行かなければ使えない。だったら、遠隔地からネットワーク越しに計算機を共有できないか——J・C・R・リックライダーらが唱えたこの「資源共有」の発想こそが、ARPANETの直接の出発点だった。つまりARPANETの分散設計には、核攻撃に耐えるためという軍事的側面と、研究者が高価な計算機を分け合いたいという実務的側面の両方が重なっていた。どちらか一方だけでは、あの設計は生まれなかっただろう。

もう一つの分かれ道は、ARPANETが学術ネットワークから世界中の誰もが使えるインターネットへ育つ過程にあった。1970年代、コンピューター同士をつなぐ通信規格は乱立していた。ARPANET用のNCP、電話会社が推すX.25、そしてIBMやDECといった大手メーカーが自社製品だけで通用する独自規格を売り込んでいた。規格が違えば、違うメーカーの機械同士はつながらない。ここで米国防総省が選んだのが、公開されていて誰でも無償で実装できるTCP/IPだった。1983年1月1日、ARPANETは旧規格から一斉にTCP/IPへ切り替える「フラッグデー」を実施する。特定企業の製品を買わないと使えない独自規格と違い、TCP/IPは誰でも自由に実装できたから、大学も企業も国境も超えて同じ土俵に乗ることができた。特定の会社の利益ではなく公開された規格が勝ち残ったこと——これが、今日どんな機器からでもインターネットにつながる前提を作った。

4つの衛星と原子時計——GPSはどうやって「現在地」を割り出すのか

もう一つの主役、GPS(全地球測位システム)も、米国防総省が開発した軍事衛星測位システムである。1970年代に開発が始まり、当初は軍用に限定されていた。

GPSの原理は、電波が届くまでの「時間差」を使うことにある。地球の周りを回る各GPS衛星は、常に「自分の位置」と「電波を発信した時刻」を電波に乗せて送り続けている。地上の受信機(スマホなど)は、その電波が届くまでにかかった時間から、衛星までの距離を計算する。電波は光と同じ速さで進むので、時間さえ正確にわかれば距離が出せる——これは、雷が見えてから音が届くまでの時間で、雷までの距離がわかるのと同じ理屈だ。

衛星が1個だけなら、自分の位置は「その衛星から測った距離ぶんだけ離れた球面上のどこか」としかわからない。2個なら、2つの球面が重なる円周上に絞られる。3個あれば、円周と3つ目の球面が交わる点は理論上2つまで絞れ、片方は宇宙空間なのでもう一方が現在地だとわかる。ところが実際には、受信機側の安価な時計がわずかにずれているせいで、3個の衛星だけでは正確な位置が出ない。そこで4個目の衛星が必要になる。4個の距離データがあれば、位置(縦・横・高さ)と時計のずれという4つの未知数を、まとめて解くことができるのだ。

この仕組みが成り立つ大前提が、衛星に積まれた原子時計である。GPSは電波の到達時間差から距離を割り出すため、時計が100万分の1秒狂うだけで、距離の誤差は数百メートルに跳ね上がる。そこで各衛星には、セシウムやルビジウムの原子が振動する周期を基準にした原子時計が搭載され、地上の管制局が常に補正をかけている。安価な水晶時計ではとても追いつかない精度が、GPSの命綱なのである。

撃墜事件、大統領声明、そして「精度解禁」の駆け引き

GPSの位置づけを変えたのが、1983年9月1日の大韓航空機撃墜事件だった。航法を誤ってソ連領空に迷い込んだ民間旅客機が、ソ連軍機に撃墜され、乗員乗客269人全員が犠牲になった。事件からわずか16日後の9月16日、レーガン大統領は、GPSが完成した際には民間の航行安全のために開放すると表明する。もっとも、GPSに民生用の信号を持たせる設計自体は、この事件より前の1970年代の開発段階からすでに組み込まれていた。撃墜事件が生み出したのは技術ではなく、「民間開放を先延ばしにしない」という政治的な後押しと、世論への説明材料だったといえる。

とはいえ、開放後もしばらくは「SA(選択利用性)」という仕組みで民間信号の精度がわざと落とされていた。誤差は100メートル前後で、カーナビゲーションとして実用に耐えるレベルではなかった。それが2000年5月1日深夜、クリントン大統領の指示で精度制限が解除されると、誤差は一気に10メートル前後まで縮まる。

なぜこの時期に解除されたのか。米国防総省自身の分析では、SAはすでに軍事的な意味を失いつつあった。民間の測量業者らは、地上の基準局と受信機の誤差を突き合わせる「ディファレンシャルGPS」という技術で、SAをすり抜けて高精度の位置情報を得る方法をすでに編み出していたからだ。SAは敵対勢力の高精度利用を防ぐはずの仕組みだったが、民間の工夫によって技術的に無力化されつつあった。加えて、当時ヨーロッパは独自の衛星測位システム「ガリレオ」の計画を進めており、GPSを民間にとって使いやすくしておくことは、世界標準の座をGPSが握り続けるための一手でもあった、という指摘もある。軍事技術の民生転用は、技術の完成度だけでなく、他の技術との競争、そして「世界の標準規格を誰が握るか」という戦略判断が絡み合って進んだのである。

「位置」と「接続」が公共インフラになった世界

インターネットもGPSも、技術そのものは1960〜70年代にはほぼ完成していた。それが世界を変えたのは、技術が生まれてから何年も、時には何十年も後、公開や解禁という条件が整ったタイミングだった。パケット交換もGPS衛星も、それ単体では兵器や研究室の道具にすぎなかった。冷戦の終わりと政策判断という「事情」が揃って初めて、誰もが使える公共インフラに変わったのである。

そして今、製造業にとって「位置」と「接続」がほぼ無料で使えることの意味は大きい。工場や物流の現場では、GPSによる車両・在庫のトレーサビリティ、センサーが常時つながるIoT、遠隔地からの設備監視が当たり前になりつつある。かつて軍だけが持っていた「どこにあるか」「つながっているか」という情報が、今や中小企業の現場でも扱える道具になった。

シリーズ第一部を振り返って

330万年前、ケニアの湖畔で誰かが石を打ち欠いたところから、このシリーズは始まった。振り返れば、どの道具も単独で世界を動かした例は一つもない。車輪は「軸」という部品が揃うまで、長いあいだただの飾りの玩具として眠っていた。火薬は、不老不死の薬を探す研究の中で硝石という材料に出会ったことから生まれ、兵器に転じるまでにはさらに時間を要した。紙と活字は、表音文字か表意文字かという文字の種類の違いによって、普及の速度が地域ごとに分かれた。機械時計は、祈りの時間を告げる教会の鐘から、工場労働者を一斉に働かせる規律の道具へと役割を変えることで社会を変えた。ネジと旋盤は、精度の高い工作機械が次の世代のより精度の高い工作機械を生む、という連鎖を作り出した。蒸気機関は、炭鉱の排水というピンポイントの困りごとと、発明を独占せず改良を許す特許制度が重なって、初めて工場の動力として広まった。電信、写真、ベアリング、缶詰、合成染料、電池、内燃機関、プラスチック、半導体、コンテナ、NC工作機械——そして今回のインターネットとGPSも同じ道筋をたどった。パケット交換という技術は1960年代に完成していたのに、規格の統一という条件が整うまでは一部の研究者だけの道具だった。GPSの衛星は1970年代に飛び始めていたのに、政治判断による精度解禁という条件が整うまでは、誰も車の中で使えなかった。技術が生まれる瞬間と、それが意味を持つ瞬間は、いつもずれている。その間を埋めたのは、事情であり、環境であり、隣にあった別の道具であり、時には一つの政治的決断だった。

今、私たちの周りでも、条件が揃いつつある発明がいくつもある。AIは計算資源と大量のデータという条件が揃ったことで実用段階に入った。再生可能エネルギーは蓄電技術という条件を待っている。宇宙開発は打ち上げコストという条件が下がり始めたばかりだ。次にどの発明が「意味を持つ」瞬間を迎えるのか——その答えは、まだ誰も知らない。

シリーズ第一部はここで一区切りとする。次回からは番外編として、日本の道具にフォーカスしたスペシャルをお届けする予定だ。たたら製鉄、和釘と宮大工の技、からくり人形から自動織機へ——世界史の裏側で、日本の職人たちが積み上げてきた「条件の揃え方」を追っていく。

出典・参考文献

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