台所にある電子レンジの中心には、マグネトロンという部品が入っている。この部品は、料理のために発明されたものではない。もともとは、夜の空を飛んでくる爆撃機を見つけるために磨き上げられた軍事技術である。しかも面白いのは、順番だ。電子レンジは「食べ物を温める装置がほしい」という願いから生まれたのではない。戦争のために大量生産された部品が戦後に余り、その使い道を探すうちに、たまたま台所にたどり着いたのである。
「殺人光線は作れるか」への、意外な回答
一九三〇年代半ばのイギリスは、次の戦争で都市が空から爆撃されることを本気で恐れていた。爆撃機は必ず防空網を抜けてくる、という悲観論が支配的だった。そこで航空省は、当時の新聞をにぎわせていたある噂の検証を、電波の専門家ロバート・ワトソン・ワットに依頼する。電波で敵機を破壊する「殺人光線」は実現可能か、という問い合わせである。
ワトソン・ワットは助手に計算させ、そして正直に答えた。機体を焼き落とすようなエネルギーを電波で送ることは不可能である、と。ただし、彼はそこで報告を終えなかった。破壊はできないが、探知ならできる——電波を当てて跳ね返りを捉えれば、見えない機影の位置がわかるはずだ、と付け加えたのである。
一九三五年二月、彼らはこれを実地で確かめる。新しい送信機を作るのではなく、すでに稼働していた放送用の送信所の電波を借り、そこへ爆撃機を飛ばして、受信機に反射を映し出してみせた。イギリスはただちに海岸線への設置を決め、開戦までに「チェーン・ホーム」と呼ばれる警戒網が並ぶことになる。
レーダーは、装置だけでは役に立たなかった
ここが、このシリーズで何度も出てくる場面である。当時のチェーン・ホームは、今の目で見ればひどく粗い装置だった。波長が長く、方角も高度も精度は高くない。しかも探知はできても、その情報は「海の向こうに何かが来る」という断片にすぎない。断片をいくら集めても、戦闘機をどこへ向かわせるかは決まらない。
イギリスが本当に作り上げたのは、装置ではなく仕組みのほうだった。各地のレーダー局が受け取った反射、目視で機影を数える観測隊の報告、味方機の位置。それらを電話線で一か所に集め、地図の上に駒として並べ、そこから初めて迎撃の指示を出す。前回まで見てきた電話網が、ここで防空の神経系として使われている。レーダーという新しい目は、情報を集約して判断に変える回路とつながって、初めて武器になった。
発明は、事情・環境・他の道具が揃って初めて意味を持つ。同じころ、ドイツにもレーダーはあった。技術そのものはむしろ進んでいた面すらある。それでも運用の設計で差がついた。この時代のレーダーの物語は、装置の性能競争としてよりも、装置を組み込む仕組みの競争として読むほうが正確である。
マグネトロンという、戦局を変えた小さな部品
レーダーには、初めから明白な弱点があった。波長が長いと、アンテナが巨大になる。海岸に鉄塔を立てるならまだしも、航空機や艦船に載せることができない。波長を短く、つまりマイクロ波を強力に出せる部品がどうしても必要だった。
一九四〇年、バーミンガム大学のジョン・ランダルとハリー・ブートが、空洞マグネトロンを動作させる。手のひらに載る大きさで、それまでとは桁違いのマイクロ波を吐き出す装置だった。アンテナは一気に小さくなり、レーダーは飛行機に乗り、船に載り、夜間でも潜水艦の潜望鏡を捉えられるようになる。
だが、当時のイギリスには量産する余力がなかった。同年、イギリスは技術者団を編成し、このマグネトロンを含む機密技術一式を箱に詰めてアメリカへ渡す。後に「アメリカに運ばれた最も価値のある貨物」と評される移送である。マサチューセッツ工科大学に大規模な研究所が設けられ、マグネトロンとレーダーはアメリカの工業力で徹底的に量産された。この時点で、マグネトロンは「珍しい実験装置」から「工場で作れる部品」に変わっていた。この差が、戦後にきいてくる。
溶けたチョコレートと、余った部品
戦争が終わると、大量に作れるマグネトロンだけが残った。売り先はもうない。
そこに、レーダー製造を手がけたアメリカの企業で技術者として働いていたパーシー・スペンサーの逸話が重なる。稼働中のマグネトロンの前に立っていたところ、ポケットの中の菓子が溶けていることに気づいた、という有名な話である。彼はポップコーンの粒を近づけ、次に卵を試したと伝えられる。マイクロ波が食品の中で直接熱を生むことを確かめた彼は、一九四〇年代の半ばに調理装置として特許を出願する。
もっとも、最初の製品は台所に置けるものではなかった。人の背丈ほどあり、水冷を要し、値段は自動車が買えるほど。売れた先はレストランや船の厨房、鉄道の食堂といった業務用だった。家庭に入るまでには、さらに二十年近くかかっている。小型化と価格の低下を押し進めたのは、戦後に電子部品の量産で力をつけた日本の家電メーカーで、一九六〇年代の初めには量産型が市場に出ていく。冷凍食品が家庭に普及し、共働きが増え、「短時間で温め直す」ことに価値が生まれた社会が、ようやく受け皿として整った。
道具の用途は、作った人が決めるとは限らない。この連載で何度も出てきた命題が、ここでも繰り返される。敵機を探すために極限まで磨かれた部品は、誰も温めようとしていなかった夕食を温めている。軍事研究が民生の基盤になるという筋道は、以前扱ったインターネットとGPSとまったく同じ構造だ。違うのは、こちらは玄関ではなく台所に到着した、という点だけである。
次回は「#42 ペニシリン——発見から十六年、薬にならなかった薬」を予定している。 カビから薬効が見つかってから、実際に人を救えるようになるまでに、なぜそれほど長い時間が必要だったのか。答えは医学ではなく、ものづくりの側にある。
出典・参考文献
Robert Buderi『The Invention That Changed the World: How a Small Group of Radar Pioneers Won the Second World War and Launched a Technological Revolution』Simon & Schuster, 1996
Louis Brown『A Radar History of World War II: Technical and Military Imperatives』Institute of Physics Publishing, 1999