クイズをひとつ。プラスチックと漆、化学的にはどちらも「木や石油から取り出した高分子を、加工しやすい形にして固める」という発想の道具である。では、この発想が先に実用化されたのはどちらだろうか。
答えは漆である。しかも大差がついている。プラスチックの歴史はおよそ150年(#22参照)。対して漆は、日本列島で少なくとも9000年前から使われていたことが、遺跡の出土品からわかっている。石油化学など影も形もなかった時代に、人はすでに「木の樹液を塗って固める」という天然の高分子樹脂を手にしていたのである。
縄文人が使っていた「塗る樹脂」
福井県の鳥浜貝塚をはじめとする縄文時代の遺跡からは、赤や黒に発色した漆塗りの櫛や器、装身具が出土している。当時の縄文人は、ウルシの木から採れる樹液を加工し、木や骨でできた道具の表面に塗り重ねていた。
漆の用途は装飾にとどまらない。表面を美しく彩る塗料であると同時に、壊れた器を継ぎ合わせる接着剤、木製品の耐久性を高める防水材にもなる。ひとつの素材が塗る・貼る・守るという複数の役割を同時に果たす、いわば万能素材だった。それでも縄文人がこの手間のかかる技術を手放さなかったのは、漆でしか得られない耐久性と美しさがあったからだろう。
「乾く」のではなく「固まる」——酵素が起こす化学反応
漆には不思議な性質がある。木から採ったばかりの生漆は液体だが、時間が経つとやがて硬い塗膜になる。多くの人が誤解しやすいのは、この硬化が水分の蒸発による「乾燥」ではないという点だ。
漆の主成分ウルシオール(フェノール化合物の一種)には、ラッカーゼという酸化酵素が溶け込んでいる。ラッカーゼは空気中の酸素を使ってウルシオールを酸化し、できたラジカル(電子が一つ余った不安定な分子)どうしを次々に結びつける。この反応が繰り返されることで、液体だった分子が網の目状につながった頑丈な塗膜へと変わる。つまり漆は蒸発で乾くのではなく、酵素が触媒する化学反応で「固まる」素材なのだ。
ここに漆最大の逆説がある。この酸化反応を進めるには、塗膜の内部までまんべんなく酸素と水分が行き渡る必要があり、そのためには湿度70〜85%前後、気温20〜25度前後という、むしろ高温多湿の環境が適している。乾燥した部屋に置けば表面だけが固まって内部は生乾きのままになり、逆に湿った「漆風呂」と呼ばれる専用の戸棚に入れるとしっかり硬化が進む。乾かしたいのに湿らせる——この一見矛盾した作業こそが、漆職人の腕の見せどころになっている。
一本の木から牛乳瓶一本分——漆搔きという重労働
固まる仕組み以上に過酷なのが、原料を採る現場である。漆搔き職人は6月から10月にかけて、ウルシの木の幹に鎌で浅い傷(辺)をつけ、にじみ出す樹液をヘラで一滴ずつかき集める。だが1本の木から採れる生漆は、シーズンを通してもわずか200グラム前後、牛乳瓶1本分ほどしかない。しかも木を育てるには15〜20年もかかる。
さらに日本の漆搔きには「殺し掻き」という独特の方法がある。中国やベトナムでは毎年同じ木に少しずつ傷をつけて何年も採り続ける「養生掻き」が主流なのに対し、日本では1本の木から一夏で採れるだけ採り尽くし、採取が終わると木を伐採してしまう。木を長持ちさせる方法をあえて選ばず、一気に濃く上質な樹液を採り切る発想で、この滴を職人たちは「血の一滴」と呼んできた。希少で手間のかかる原料だからこそ、漆は昔から高価な素材であり続けたのである。
下地・中塗り・上塗り・蒔絵——積み重ねが生む堅牢さ
採取した漆は、そのまま塗ってすぐ美術品になるわけではない。木地に麻布を貼って補強し、砥の粉と漆を練った下地を何層も塗って研ぐ工程、さらに漆を塗っては研ぐことを繰り返す中塗り、最後にちりひとつない上塗りを施す工程——それぞれに数日から数週間の乾燥期間が挟まる。輪島塗ではこの一連の作業が124にも及ぶ工程に細分化され、木地師・下地職人・上塗師・蒔絵師など専門の職人が分業でリレーしていく。
仕上げの加飾では、漆で文様を描いた上に金粉や銀粉を蒔く蒔絵、貝殻の輝く層をはめ込む螺鈿といった技法が使われる。器としての強さは何層にも重ねた下地と上塗りが支え、美しさは最後の加飾が担う。ひとつの工程だけでは成立しない、積み重ねの技術体系がここにある。
なぜ日本でここまで高度化したのか
ここで疑問が生まれる。漆の木そのものは中国大陸が原産で、縄文時代の初め頃に日本列島へ持ち込まれたと考えられている。原料の木は輸入品だったのに、なぜ漆器づくりを極限まで洗練させたのは中国ではなく日本だったのか。
理由の一つは気候である。ウルシの木は雲南省を中心とする照葉樹林帯(常緑広葉樹が茂る温暖多湿な地域)を故郷とし、日本列島の高温多湿な気候はこの木の生育にも、そして先に見た酵素硬化にも都合がよかった。「乾かしたいのに湿らせる」という漆の性質と、日本の梅雨や夏の湿気とが噛み合ったことが、技術を根づかせる土台になった。
もう一つの理由は需要の連続性である。奈良時代には仏像・仏具づくりで漆が本格的に使われ、中世には武家の甲冑や刀の鞘に堅牢さと威厳を与える素材として、江戸時代には茶の湯の道具として、時代ごとに担い手を変えながら高級品としての需要が途切れずに続いた。加えて江戸期の各藩は、年貢だけに頼らない財源として漆器づくりを殖産興業策に位置づけ、輪島や会津、京などの産地で職人を育て、124工程に及ぶような徹底した分業制を整えていった。木という条件、湿潤な気候という条件、そして途切れない需要と藩の産業政策という条件——これらが揃って初めて、漆は「使える技術」から「極めた技術」へと押し上げられたのである。発明は、事情・環境・他の道具が揃って初めて意味を持つというのが本シリーズを貫く見方だが、漆の高度化はその典型例といえる。
海を渡った「japan」と、今なお続く原料不足
大航海時代、ポルトガル船やオランダ船を通じてヨーロッパに渡った日本や東アジアの漆器は、南蛮貿易・紅毛貿易を通じて王侯貴族の邸宅を飾る調度品として珍重された。やがて英語で漆器そのものを指す言葉として「japan」が使われるようになる。磁器を意味する「china」と並び、一つの国名がそのまま特定の工芸品の代名詞になるほど、当時の漆器は高く評価されていたわけだ。
その一方で、現代の日本国内では合成樹脂の普及により漆器の日用品としての役割は縮小し、国内で流通する漆の9割以上を中国産などの輸入品が占め、国産漆はわずか1割ほどにとどまっている。ところが文化庁は2018年度から、国宝・重要文化財の建造物修理には原則として国産漆を使う方針を打ち出した。修理には年間およそ2.2トンの国産漆が必要とされる一方、木を育てるのに15〜20年、採取できるのは1本あたり牛乳瓶1本分という「殺し掻き」の構造そのものが、増産を簡単には許さない。9000年前から続く技術は、今も原料調達というもっとも古典的な制約と向き合っている。
番外編「日本の道具スペシャル」——今も続く技
近年注目される金継ぎもこの技術の延長線上にある。割れた器を漆で接ぎ、継ぎ目を金で装飾して直す技法で、壊れたものを捨てずに直して使うという発想そのものが、あらためて見直されている。9000年前の縄文人が漆で器を補修していたのと同じ発想が、形を変えて現代に息づいている。今回はシリーズ番外編「日本の道具スペシャル」の一編として、この息の長い天然素材を取り上げた。
次回は「消えた道具・計算尺——アポロを飛ばして、電卓に消えた」をお届けします。
出典・参考文献
- 四柳嘉章『漆の文化史』岩波新書、2009年
- 福井県立若狭歴史博物館・鳥浜貝塚関連資料(Web)
- 京都府中小企業技術センター「ウルシオールとラッカーゼ(LAC)による反応」研究報告 №11(2021)
- 日本包装学会誌 Vol.31 No.3(2022)「用語 漆(うるし)」
- NPO法人ウルシネクスト「日本のウルシの木 原産地・栽培か自生か」(Web)
- 農林水産省「『漆』の世界」aff(Web、2022年11月号)
- 輪島塗漆器商工業協同組合連合会・田谷漆器店「輪島塗ができるまで」(Web)
- 京都国立博物館 博物館ディクショナリー「南蛮漆器物語」(Web)